杉村楚人冠記念館 オープン記念講演会レポート
平成23年11月23日(水曜日・祝日)に杉村楚人冠記念館のオープンを記念して、オープン記念講演会「楚人冠の二つの顔」を開催いたしました。
平山昇さんからは、新聞人としての楚人冠に光を当て、楚人冠の投書欄への取り組み方をお話しいただきました。
小林康達さんには、楚人冠が初めて我孫子に来たきっかけは、鴨猟の取材と言われています。その取材からちょうど100年経った今、楚人冠が愛した当時の手賀沼の様子と、楚人冠の動物愛護、自然保護思想についてお話いただきました。
それでは、当日の講演内容について、レポートします。
平山昇さん (立教大学経済研究所)「投書欄の可能性を求めて ―楚人冠による臨時投書欄「思ひつぎつぎ」の試み―」
今回のご講演では、楚人冠によって、大正元(1912)年、明治天皇が亡くなった直後から約一ヶ月にわたって『東京朝日新聞』に設けられた「思ひつぎつぎ」という臨時投書欄で、明治神宮建設の是非および「桂公の為に弁ず」という記事をめぐって繰り広げられた投書による議論の過程が紹介されました。
まず、明治神宮建設の是非を問う記事に関することを中心に内容が進んでいきました。当時の世論は、明治神宮建設をすることは、当たり前であるという風潮であり、新聞各紙は挙って明治神宮建設に賛同し、反対意見は即座に反発されるという状況でした。そのような中で、楚人冠が『東京朝日新聞』に設けた「思ひつぎつぎ」という名の臨時投書欄では、唯一明治神宮反対の当初が数多く掲載されて推進派と反対派の“議論”が生じました。楚人冠は、はじめに自分の意見を投げかけ、その投げかけに読者が反応したことによって「思ひつぎつぎ」欄は投書欄としての機能を持つようになりました。その「思ひつぎつぎ」欄において楚人冠は、何度か投書による議論の活性化を図る他にも、感情的な意見をたしなめる議長的な役割を果たしました。その結果、他の新聞紙では議論されなかった明治神宮建設について賛成・反対の議論が活発となりました。楚人冠だけではなく読者からも「冷静に議論しよう」といった議長的な呼びかけがおこったことにより、投書の内容も、賛成・反対意見の双方から相手の「赤心(天皇を敬う気持)」を尊重するフェア・プレーの姿勢を示した投書へと変化し、短期間ながら投書欄としての成熟を見て取ることができます。
また、「桂公の為に弁ず」という記事をめぐる投書では、読者の情報読解能力(メディア・リテラシー)が論点として浮上しました。この記事に関しては、楚人冠自身は、一篇の論説を書いたのみで、その記事に対する読者同士の投書によるやり取りの中から、情報というのは、受取る側の読解能力が必要であるということが示されることになりました。
以上から平山さんは、言論の自由が抑制されていた時代にも、自らの意見を一市民が言える環境をつくった紙面を目指したのが楚人冠であるとまとめられました。そして、現在においても、メディアによる情報操作の危険性があり、楚人冠の試みは現代の我々にとっても示唆をもつと指摘されていました。
小林康達さん(市教育委員会嘱託職員)「楚人冠と手賀沼との出会いから100年 ―その動物愛護、景観保護思想―」
小林さんは、東京朝日新聞の記者杉村楚人冠が、手賀沼の鴨良取材に訪れたのは、今から100年前、明治44(1911)年11月、誘ったのは楚人冠も属していた動物愛護会の会員であったと、まずタイトルとおり、楚人冠と手賀沼との出会いからご講演がはじまりました。
楚人冠が手賀沼を訪れたのは、当時の手賀沼は鴨猟が盛んでしたが、猟銃を使用しない流黐縄猟と張切網猟を併用する伝統的な猟法を行っていたからでした。このように楚人冠と手賀沼とを最初に結びつけたのは、動物愛護運動でした。楚人冠はその後も、自宅の庭に巣箱を設け、日本野鳥の会の発足にもかかわるなど動物愛護思想を持ち続けていたことが分かりました。
このとき楚人冠は、湖北駅付近から見た手賀沼を臨む入り組んだ台地の紅葉の景色に魅了され、ここに住居を構えてみたいと考えました。知り合いですでに手賀沼に別荘を持つ島田久兵衛に相談すると、汽車の便のいい我孫子駅付近を薦められ、翌年現在の杉村楚人冠記念館の地に質素な別荘を設け、それを大きく白馬城と称しました。その後、関東大震災を経て母屋を新築して一家で転居しました。転居後まもなく国の手賀沼干拓計画が発表され、同地に別荘を持つ柔道の嘉納治五郎、東京帝大教授村川堅固らと手賀沼保勝会を作って干拓反対の運動を進めようとしました。その趣意書には、干拓は何時でもできるが、一度干拓されてしまえば元の沼には戻らないことを説き、東京から最も近い手賀沼の景観や水資源を保存して観光、リクレーション、住宅地などに活かすことを訴え、県の淡水養魚試験場を誘致した。また、国に干拓中止の陳情書を出すなど、手賀沼の景観保護に大きな役割を果たしました。
しかし、地元では水害から農地を守るとともに農地拡張は長年の念願であったから国費による手賀沼干拓は魅力ある事業でした。また、養魚試験場を作るには地元からの土地と寄附金が必要であったため我孫子町議会に提案されたところ、全会一致で否決されてしまいました。別荘地の人々が土地を釣り上げるために干拓反対を唱えていると考える地元民も少なくなかったからでした。このことから、楚人冠らは、地元の人たちとの意思疎通の必要を痛感させられる結果となりました。これまで手賀沼保勝会の正式な結成が確認できなかったのは、こうした経緯を踏まえて楚人冠らは組織よりも地元との意思疎通を優先させたものと考えられると小林さんは指摘します。
その後、楚人冠らは、町の指導者たちと座談会を重ね、青年たちを誘って俳句結社湖畔吟社を作って交流を図りました。一方、染谷正治町長(一時県会議員を兼ねる)を中心とした我孫子ゴルフ場の建設や手賀沼県立公園の指定、町の青年たちを中心とした我孫子風致会の活動など、次第に地元から自主的な景観保護や活用の動きが生まれたことも注目に価すると、楚人冠の活動を紹介していただきました。
とても寒い日だったのにもかかわらず、たくさんの方々にご来場いただきました。この場をお借りして、お礼申し上げます。
また、新しい楚人冠の一面をご紹介できる場を企画していきたいと思いますので、よろしくお願い申し上げます。