企画展「楚人冠が見た舞台芸術 オペラ・演劇・舞踊」
展示概要
新聞記者として劇評を書いたこともあり、小説「うるさき人々」が舞台化されたことで原作者の経験もある杉村楚人冠は、舞台芸術と縁の深い新聞記者の一人といえるでしょう。
この展示では、杉村楚人冠と交流があった舞台芸術の関係者、特に近代に新しい分野を切り開いた人々を当時の手紙や本で紹介しました。
展示期間
令和4年3月15日(火曜日)から5月15日(日曜日)まで
展示内容
1 女優の誕生 森律子
森律子書簡「羽ばたきかぬる唖蝉より」
帝国女優養成所に通い、帝国劇場で最初の女優となった一人が森律子です。当時は役者蔑視の風潮が強く、女学校を卒業し良家の子女とみられた森が女優となったことは、センセーショナルに受け止められました。
その苦労を反映してか、杉村楚人冠が森への攻撃を批判した文章を載せた単行本『弱者の為に』を受け取った礼状には「羽ばたきかぬる唖蝉より」と書いています。
2 オペラの黎明期 三浦環・原信子
三浦環書簡 ロンドンでの出演決定を報告
女優と同様、女性の歌手もスキャンダラスな報道の対象とされ、苦しんでいました。その一人が三浦環です。
三浦は日本で最初のオペラ歌手の一人ですが、オペラがなかなか普及せず苦労していました。そんななか、医師の夫についてドイツに留学したところたまたま第一次世界大戦開戦に遭い、イギリスに難を逃れたことからチャンスをつかみます。
指揮者のヘンリー・ウッドに売り込みをかけて試験を受け、世界的に高名だったパティ夫人の出演するコンサートに三浦も出演を許されたのです。ここから、三浦の欧米での活躍が始まりました。その最初のコンサートに出演が決まったことを報告する手紙を展示しました。
サンフランシスコ行き汽船での原信子(中央)と杉村楚人冠(右)
三浦の教え子で、オペラ普及の功労者でありながら、やはり女性歌手であるための苦労を強いられたのが原信子です。
なかなか普及しなかったオペラは、大衆向けにアレンジした浅草オペラの登場で人気を博します。原は浅草オペラで活躍した歌手の一人でした。
大正4年(1915年)、アメリカのオペラを視察に出かけた原は、サンフランシスコ行きの汽船で杉村楚人冠と同乗し、知り合います。
のちにイタリア・ミラノのスカラ座で日本人初の専属歌手として活躍した原は、ミラノからの手紙に、サンフランシスコへ行ったときに楚人冠が話した芸術家と外交の話は忘れたことがない、と書いています。
3 新舞踊の嚆矢
『藤蔭』第5輯
明治時代に坪内逍遥がそれまでの歌舞伎舞踊よりも詩的・芸術的な志向を強めた新舞踊を提唱しましたが、その実践には時間がかかりました。大正時代にようやく現れた新舞踊運動の嚆矢は藤間静枝の藤蔭会でした。静江はのちに家元との対立から自ら藤蔭流を興し、藤蔭静枝を名乗ります。
静枝の手紙からは、杉村楚人冠が作詞した哥沢「湯瀬の松風」に静枝が振りを付けたことがわかるなど、文化的な交流ができる友人の一人であったことがうかがえます。
4 『うるさき人々』の舞台化
和田英作画 杉村楚人冠・沢田正二郎・曽我廼家五郎の似顔絵
杉村楚人冠が東京朝日新聞に連載した小説「うるさき人々」は、沢田正二郎の新国劇が帝国劇場で、曽我廼家五郎の曽我廼家劇が新橋演舞場で舞台化しました。
ともに、近代に演劇の新しいジャンルを開いた先駆者であり、その系譜が現代まで引き継がれてきた二人です。
この舞台に関する本や手紙を展示しました。
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