鮮魚街道・布佐観音堂
鮮魚街道
1.鮮魚街道の概要
江戸時代に鮮魚街道は、鮮魚を東京日本橋へ迅速に輸送する手段として存在しました。銚子・鹿島灘で水揚げされた鮮魚は、夏季(利根川→江戸川→新川→小名木川→日本橋)と冬季(利根川→河岸→鮮魚街道→江戸川→日本橋)で輸送方法が異なります。魚の種類としては鯛・すずき・こち・ひらめ・鰹・鮪等で、鯛やひらめ等の生きのよい魚は生魚で、水揚げの早い魚や鯖などの生きの悪い魚ははらわたを抜き笹の葉などでサンドイッチにした状態で籠・箱詰めにして輸送されます。夏季には「活船」(生簀のある船)で、冬季には「なま船」(猪牙船)を使用しました。冬季に鮮魚街道が利用されたのは、この時期に利根川の水量が減少していることや、布施から三ツ堀間に浅瀬があること、今上と流山間にも難所があったこと等を原因としています。鮮魚街道には松戸みち・行徳みちの二つがあり、特に松戸みちは馬による付通し(宿滞在無し)が可能だったため、迅速に輸送できました。寛政期(1780年から1801年)頃には、松戸みちの荷物量が行徳みちを超し、盛んになります。明治期(1868年から1912年)に入ると、鉄道や自動車が普及し鮮魚街道は終焉を迎えます。

高瀬舟、大正期撮影(みんなのアルバム同好会『我孫子みんなのアルバムから』2004)
2.歴史資料に残る鮮魚街道
鮮魚街道は、冬季に鮮魚を迅速に輸送する手段として存在し、営業競争相手の村と通し馬の慣行や鮮魚荷卸の権利を争う訴訟関係の資料に加え、幕府からの裁許資料があります。
〔 幕府からの主な裁許資料 〕
・正徳6(1716)年:「鮮荷付通鎌ヶ谷村差押一件裁許請書」
・元文2(1737)年:「鮮魚荷場木下川岸・布佐村内済証文」
・安永8(1779)年:「中峠村鮮魚荷場争論裁許請書(写)」
布佐観音堂
1.布佐観音堂と鮮魚街道

榎本家資料、嘉永5(1852)年(榎本家蔵)
布佐観音堂では、鮮魚街道で活躍した馬を供養するため馬頭観音像が祀られています。
画像資料(榎本家資料 嘉永5)では、鮮魚街道の「江戸往来道」と「観音堂」が確認できます。記載されている観音堂は現在の跡地の位置と異なり、利根川の堤防改修の際、移動したと考えられます。明治になると無住廃寺となり、
「寺院明細帳」には記載されていません。令和6(2024)年に倒壊の恐れから取り壊されましたが、観音堂の仏像群は延命寺にて安置されています。
取り壊し前の布佐観音堂
2.布佐観音堂の歴史資料
令和6(2024)年の観音堂取り壊しの際、収集した資料の一部は以下のとおりです。

馬頭観音像(延命寺蔵)
入仏式写真資料、昭和34(1959)年10月25日 (我孫子市教育委員会蔵)
布佐観音堂天井資料、納付者の氏名と家紋が書かれる。(我孫子市教育委員会蔵)
布佐観音堂、屋根裏に奉納された破魔矢。(我孫子市教育委員会蔵)
ほかにも多くの民具を寄贈していただき、保存しています。
教育委員会 生涯学習部 文化・スポーツ課
〒270-1166 千葉県我孫子市我孫子1684番地 ※お問い合わせは平日の午前8時30分から午後5時まで
電話:04-7185-1604(スポーツ振興係)、04-7185-1601(文化振興係)、04-7185-1583(歴史文化財係)
ファクス:04-7185-1760













