我孫子古墳群ってなに?その2(高野山1号墳(第1次)・白山2号墳)
続・昭和33(1958)年の調査
白山1号墳の発掘調査の後、東京大学考古学研究室から我孫子町に対して、継続して町内の他の古墳の調査を行う必要があることが申し入れられました。これは、我孫子古墳群が、「数基の前方後円墳を核とする約60基の古墳群が数ヶ所の支群に分かれて分布する有力な古墳群で」あり、「首都近郊の住宅地としての開発が、この地域においても急速に進行しつつある情勢にかんがみ、これらの古墳の学術的意義を出来るだけ早く明らかにすることが必要であると考えられた」ためです。
我孫子町はこの申し入れを了承し、東大研究室に対して、毎年補助金を出して全面的に支援することになりました。
その初年である昭和33(1958)年中には、先の白山1号墳の他に、高野山1号墳(第1次)、白山2号墳の2基の古墳の発掘調査が行われました。
高野山1号墳(第1次)
高野山1号墳は、旧我孫子町高野山の手賀沼から開析する谷の東側に所在する高野山古墳群のうちの一基です。高野山古墳群は全部で9基の古墳が確認されており、1号墳のみ前方後円墳で、残りの8基は円墳です。
高野山1号墳は、全長36メートルを測り、いわゆる二子山形式と呼ばれる後円部と前方部の墳丘の高さ、及び径に差異がなく、辛うじて北の部分が南に比べて低かったのでそちらが前方部であろうと考えられました。
調査は、当初から墳丘及び周辺の調査を行った後に、墳丘中央部の調査を行うことが計画され、この年は墳丘及び周辺の調査が行われました。
この第1調査は元々、埴輪列等の外表施設の調査を目的として行われましたが、墳麓の埴輪円筒列の間から、当初想定していなかった箱型石棺が発見されたことにより、大きく調査期間が延長されました。最終的にこの調査では墳麓を約25センチメートルの間隔で巡る約300本の埴輪列の他に、後円部の北麓と東麓及び北クビレ部から箱型石棺が3つ(1・2・3号主体)、南クビレ部からは竪穴式石室が1つ(4号主体)確認されました。
出土した遺物としては、1号主体からは管玉と鉄鏃、2号主体からは鉄鏃、3号主体からは人骨・直刀・刀子・鉄鏃・ガラス小玉など、4号主体は残念ながら盗掘を受けていましたが、人骨と鉄鏃が確認されています。3号・4号主体で見つかった人骨は鑑定の結果、それぞれ3体と7体の個体数が把握され、ともに合葬を行っていることが分かりました。このことから高野山1号墳は、後期古墳の特色である「家族墓」としての性格を備えており、おそらくは6世紀代の築造と考えられました。
高野山1号墳
高野山1号墳出土円筒埴輪
高野山1号墳出土形象埴輪
高野山1号墳4号主体部
高野山1号墳埴輪列
白山2号墳
高野山1号墳の発掘調査終了直後、白山1号墳の北方約150メートルの住宅地で、「粘土のようなものが露出しているが古墳の跡ではないだろうか」という連絡があり、調査してみると、側溝によって軟質の砂岩で構築された横穴式石室の周辺部分が掘り返されたものでした。石室の本体は宅地に隣接した畑の土中にあり、調査の結果、半地下式の小規模な横穴式石室から、鉄刀1振と耳だま型の青銅製の金具2個が出土しました。
この白山2号墳は、先に調査された1号墳よりも新しく、我孫子古墳群の中でも終末期に位置すると考えられました。
白山2号墳出土鉄刀
白山2号墳出土耳だま型青銅製品
我孫子中学校校庭遺跡の発見
白山2号墳とほぼ同時に発見されたのが我孫子中学校校庭遺跡です。この遺跡は同校の生徒が校庭で排水溝を掘っていた際に、多量の焼土と土器が出てきたことから発見されました。連絡を受けた調査員が同校の教員・生徒とともに、一軒の竪穴住居址の調査を行いましたが、依然として同じ敷地内に数軒の遺構が存在していると考えられました。この遺跡の本格的な調査は、翌年行われることになります。