我孫子古墳群ってなに?その1(概要・白山1号墳)
旧我孫子町の我孫子古墳群
皆さんは「我孫子古墳群」ってご存じでしょうか。
「我孫子古墳群」は昭和33(1958)年から昭和42(1967)年にかけて東京大学によって発掘調査が行われた旧我孫子町内一帯の古墳及び遺跡の総称です。
この9年間に、「白山1・2号墳」「高野山1・2・3・4号墳」「我孫子中学校校庭遺跡」「日立精機1・2号墳」「我孫子第四小学校古墳」「船戸遺跡」「子の神古墳群(10号墳)」「金塚古墳」「水神山古墳」といった多くの古墳と遺跡が発掘調査されました。そしてそれらの成果として昭和44(1969)年に報告書『我孫子古墳群』が刊行されました。報告書の中では、我孫子町域の古墳について、数基の前方後円墳を中核とする、約60基の古墳が数か所の支群に分かれて分布する古墳群であるとして「我孫子古墳群」と命名しています。以降、これらの古墳を総称して「我孫子古墳群」と呼んでいます。
ここでは、何回かに分けて『我孫子古墳群』として調査された古墳・遺跡を調査年次順に紹介していきたいと思います。
昭和33(1958)年の調査
調査の経緯
「我孫子古墳群」の調査の発端は、我孫子町(現在の我孫子市の西部)白山から始まりました。我孫子町在住の西嶋定生氏は、東京大学助教授(当時)で中国古代史の研究者でした。そんな西嶋氏が散歩の途中で、宅地造成の工事をしている現場に遭遇します。この開発によって円墳と思われる土の高まりが破壊されてしまうことを知った西嶋氏は、我孫子町に対して緊急の学術調査が必要であると知らせました。同時に東京大学文学部考古学研究室の駒井和愛教授に調査を担って貰えないか相談し、その結果、昭和33(1958)年3月10日~同20日にかけて11日間の発掘調査が行われることになりました。
白山1号墳
白山1号墳は、直径29メートルの円墳で、我孫子町付近の円墳で最大級の規模を有していました。盗掘坑が確認されており、横穴式石室の一部が露出していたので当初は、石室内部の調査にはあまり期待が持たれていませんでしたが、幸いなことに天井石が崩落していたことで、石室の床部分までは盗掘が及んでいませんでした。石室内からは、玉類・金環・銅椀・直刀・鉄鏃・刀子などの副葬品が続々と発見されました。
この古墳には、男女に子供を含む最低でも9人が合葬されていました。特に武器を集中的に副葬された男性と玉類を集中的に副葬された女性がいたことが分かっており、この時代の家父長的家族の実態を示す貴重な資料となっています。また、周溝の底部からは土師器が、横穴式石室の羨門の前からは須恵器がそれぞれ置かれていたことから祭祀の種類によって特定の土器が選択されていた可能性が指摘されています。
古墳の築造年代は、5世紀前半頃と考えられています。
白山1号墳
白山1号墳出土玉類
白山1号墳石室
白山1号墳出土武具
白山1号墳近景
白山1号墳遺物出土状況