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市指定文化財

登録日:2015年7月1日

更新日:2015年7月1日

15.ヒカリモ発生地(谷津ミュージアム内)(平成28年2月29日指定:第16号)

ヒカリモ(学名:Ochromonas vischeri)は、日本各地で知られ、洞窟や山陰の池に生息する藻類で、日陰の水面に浮上して群生し、入射光を反射して黄金色に見える単細胞生物です。例年、谷津ミュージアムの浅瀬の池やその周辺で黄金色に輝き、通常4月から11月にかけて木々などで直射日光が届かない林縁の湧水だまりで不連続に出現します。
谷津ミュージアムは、昭和30年代の谷津地形と自然を守り、受け継ぐ農村環境の伝統文化を継承するため、市民・農業者・行政が協働事業として保全と活用に取り組む事業です。この取り組みで平成16年に維持管理活動によって再生された水域環境で稀有なヒカリモの生息を確認しました。ヒカリモ発生地は谷津ミュージアム内のホタル・アカガエルの里の整備区域にあり、生物観察、体験ゾーンとして一般に開放されています。

14.日立精機2号墳(我孫子二丁目(我孫子古墳公園内))(平成26年2月28日指定:第15号)

日立精機2号墳は我孫子古墳公園相に所在する古墳で、墳丘の高さ2.5メートル、全長30メートル、後円部径18メートル、後円部幅21メートル、周溝幅4~5メートル、周溝深さ50~60センチメートルで、くびれ部に横穴式石室を有する前方後円墳です。後円部径に比して前方部幅が大きく、バチ型に開く特徴的な形態を示しており、古墳時代終末期に我孫子地区に大きな勢力が展開していたことを表すものです。前方後円墳としての外観と規模を有するものとしては、水神山古墳(千葉県指定史跡)と日立精機2号墳の2基のみとなっています。

13.旧井上家住宅(相島新田)(平成24年12月28日指定:第14号)

旧井上家住宅は、我孫子市の東端にあり、江戸時代には利根川舟運の主要な港町として栄えた布佐郊外の相島新田にあります。この辺りは江戸時代中期頃から手賀沼の干拓が行われたところで、相島新田は井上家が開いたことで知られています。
旧井上家の敷地には、数多くの歴史的建造物が現存しています。大規模な母屋は、敷地の西側北寄りに東面して建ち、南側には端正な庭園が設けられています。東側には一段高くした地盤(水塚と考えられる)の上に二番土蔵があり、その南側に新土蔵が並びます。敷地の北端には旧漉場(こしば)が残っています。
表門は東側北寄りに設けられており、両側には築地塀が取り付き、北側の旧道境にも築地塀が延び、母屋の北側に裏門が開かれています。このうち母屋と表門、二番土蔵は江戸末期、旧漉場と裏門及び裏門両脇の屋根塀などが明治後期、新土蔵と庭門及び両脇屋根塀が昭和の初期に建設されたものです。

市の指定文化財に指定された建造物(平成24年12月28日指定)

  • 旧井上家住宅
    1.母屋、2.二番土蔵、3.新土蔵、4.旧漉場、5.表門、6.裏門…6棟

  • 7.庭門、8.庭門両脇屋根塀、9.裏門両脇屋根塀…3棟

12.葺不合神社本殿・拝殿附二の鳥居(平成24年3月29日指定:第13号)(新木1812番ほか)

当神社は、我孫子市新木の国道356号沿いに立地し、本殿、拝殿、鳥居等からなる旧村社で、奥深く起伏のある境内を有します。この地は、文治2(1186)年の創立と伝えられる旧厳島神社の境内で、市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)を主祭神とするかつての弁天堂が現在の拝殿です。
拝殿は、棟札や建築様式から江戸時代中期に建設されたことが知られる貴重な建築であり、屋根等に改修の跡がみられるものの当時の雰囲気を今に伝えています。また、本殿は、明治41(1908)年に、もと新木字宮前にあった葺不合神社本殿を曳家・移築したもので、明治30年の建築です。建物全体に施された精緻な装飾彫刻が大きな特徴で、江戸末期の神社建築の様式が明治期にまで伝えられた貴重な例です。

11.志賀直哉邸跡書斎(緑二丁目)(平成23年3月31日指定:第12号)

志賀直哉は「小説の神様」として知られる国民的作家であり、「白樺派」と呼ばれる作家集団のリーダー的存在となった人物です。志賀は、大正4(1915)年に友人の柳宗悦が住む我孫子に移住し、大正12(1923)年に京都に旅立つまでの約8年をここで過ごした。その間に『和解』、『城の崎にて』、『小僧の神様』、『暗夜行路』の前編と後編の大部分を次々に発表し、充実した作家生活を送った。我孫子を題材にした小説も多く(『雪の日』、『流行感冒』など)、当時の我孫子の情景を偲ぶ貴重な資料となっています。
我孫子の志賀邸は生活の場である母屋(大正4(1915)年築)、「二階家」と呼んだ崖の上の離れ(大正7(1918)年頃築)、そして書斎(大正10(1921)年築)から構成されていました。邸宅跡は現在、我孫子市が所有し、「緑雁明緑地」として市民の憩いの場として親しまれています。また、近年は付近に我孫子市白樺文学館が所在する関係もあって、来訪者が非常に多い場所となっています。
ここに残る書斎は、六畳間に床の間、踏み込み、便所、押入れを付しており、床面積は14.46平方メートルです。屋根と天井には粗い平織りの布が貼られていることや、梁、垂木の表面には「虫の食み跡」が認められますが、これは志賀の好みが反映されていると伝えられています。建物の設計については志賀直哉本人、施工は我孫子の大工、佐藤鷹蔵の手によるものです。志賀が「暗夜行路」の大半を執筆した書斎を忠実に復元作業したこの書斎は、白樺派がこの地に集ったことを示す史跡として重要な位置を占めています。

10.旧杉村楚人冠邸(緑二丁目)(平成22年1月29日指定:第11号)

旧杉村楚人冠邸は我孫子駅の南、手賀沼に向かって張出す舌状台地と谷津部分に所在しています。邸内には母屋、澤の家、茶室等の歴史的建造物が残り、邸内に多様な樹木と湧水が認められています。
旧杉村楚人冠邸は朝日新聞の看板記者であった杉村楚人冠(本名、杉村廣太郎)が明治45(1912)年に「白馬城」と名付けた別荘を設けたことに始まります。今残る「澤の家」は大正11(1922)年に建てられ、大正13(1924)年には典型的な和洋折衷式文化住宅の主屋を建てて移住しました。楚人冠は俳句結社「湖畔吟社」の活動や茶の湯等を通じて地域住民との交流を深め、この邸宅を中心に文化を発信しました。
旧杉村楚人冠邸の建物は大正期から昭和期にかけての建築物の典型的な姿を今に伝えています。また、楚人冠自身のジャーナリストとしての業績や我孫子の地域文化に貢献した重要性を考えると、楚人冠の住んだ史跡としての価値は大きいものです。

<指定物件>
澤の家:木造平屋、セメント瓦葺、トタン板葺、延床面積59.6平方メートル
母屋:木造平屋(一部二階)銅板葺、延床面積226.52平方メートル
茶室:木造平屋、瓦葺、銅板葺、延床面積32.14平方メートル
蔵:木造二階建、セメント瓦葺、延床面積54.32平方メートル

9.古戸里神楽(古戸)(平成20年7月31日指定:第10号)

古戸地区の稲荷神社の祭礼で行われます。近世の村落の祭礼の特色を示す典型的なもので、巡回する山車の上で演じられています。演じられるものには大きく神楽舞と面芝居があり、神楽舞には古戸独特の表現が見られます。また、面芝居は他に伝承されているところはごく僅かで無形民俗文化財として貴重な価値を備えています。

8.旧村川別荘(寿二丁目)(平成19年5月30日指定:第9号)

旧村川別荘は東京帝国大学教授村川堅固と、その息子で東京大学教授村川堅太郎(いずれも西洋古代史専攻)親子が設けた別荘で、2棟の別荘建物(母屋と新館)と斜面林からなります。今から90年前の大正6(1917)年に敷地を購入し、大正10(1921)年には我孫子宿本陣離れより建物を移築して母屋としました。母屋は我孫子に残る数少ない江戸時代の建造物として貴重です(もと茅葺)。また昭和の初めに堅固は朝鮮半島に調査に赴き、昭和2(1927)年から翌年にかけて当地の印象をもとに新館を建築しました。新館は関東大震災の教訓を活かしたコンクリート基礎に銅板葺きの屋根が印象的です。床は寄木モザイクで、沼の眺望を意識して南側に大きく窓をとっています。敷地内には湧水もあって、古き良き我孫子の原風景を偲ばせます。
明治末から昭和初めにかけて、交通が便利で美しい手賀沼を望む我孫子には、文化人の別荘が数多く設けられましたが、現在その建物を残すのは旧村川別荘のみであり大変貴重な存在です。

<指定物件>
母屋:木造平屋、瓦葺、延床面積72.06平方メートル
新館:木造平屋、銅板瓦葺、延床面積72.72平方メートル

7.中里薬師堂薬師三尊及び十二神像(中里)(平成18年3月6日指定:第8号)

中里薬師堂は江戸時代前期の元禄年間にはすでに存在していたことがわかっています。薬師三尊は本尊の薬師如来と脇侍の日光菩薩・月光菩薩のことをいい、人びとを病気から救うとされます。また十二神将は十二支と結びついて薬師如来を信じる人びとを加護するとされます。年代としては十二神将像が定型化する江戸時代後期以降と考えられます。中里薬師堂のように本尊と脇侍、十二神将がすべて揃って残されていることは大変珍しく、地域の人びとによる篤い信仰と管理がなされてきたことを示します。現在、本尊は秘仏とされ、年に一度の祭礼時に公開されています。

4~6.地名・人名墨書土器(新木、現教育委員会)(平成15年6月25日:第5~7号)

墨書土器とは墨で文字や記号などを記した土器のことをさします。特に奈良時代から平安時代にかけて千葉県下では多くの墨書土器が発見され、当時の社会・経済を研究する上で重要な示唆を与えています。古代の我孫子市は下総国相馬郡に属し、その中心となる役所である郡衙は湖北高校付近に置かれていました。郡衙では税の台帳となる戸籍が作られ、国府を経由して都に送られていました。奈良東大寺正倉院に残された『正倉院文書』には保存期限が過ぎて廃棄された戸籍の裏紙が東大寺写経所の運営にかかわる文書として再利用されたものがあり、その中に偶然にも下総国倉麻郡意布郷養老五年戸籍(721年)が含まれていました。この戸籍には「藤原部」という姓をもつ人々が多く記されていますが、藤原部は後に「久須波良部」と改姓されています。新木地区から出土した3点の墨書土器にはいずれも「久須波良部」姓をもつ女性名が記されており、正倉院文書に記された「藤原部=久須波良部」の人々が実際に暮らしていたことを示す資料として極めて重要です。

3.裁縫雛形(中峠、現教育委員会)(平成14年7月8日:第4号)

裁縫雛形とは実寸の三分の一の雛形製作によって短期間で多種類の裁ち縫いを学べるという画期的な方法です。明治時代の教育者渡辺辰五郎(東京家政大学創始者)によって考案され、全国の裁縫教育の普及に役立ちました。この裁縫雛形は故秋谷きい氏(中峠住)が東京裁縫女学校(東京家政大学の前身)で課題として製作したもので、和裁・洋裁含めて85点にのぼります。裁縫教育は戦前の女学校で重点科目とされましたが、資料の性質上残されているものは大変少なく、女性史・教育史の視点から極めて貴重な資料となっています。なお東京家政大学に卒業生から寄贈された裁縫雛形3,000点は国の重要有形民俗文化財として指定されています。

2.仁阿弥道八作「陶製仁王像」(根戸・妙蓮寺)(平成13年10月29日:第3号)

仁阿弥道八作「陶製仁王像」は阿形・吽形の2躯からなります。手びねりによって作られた仁王像は高さ約30センチの小品ですが、いかめしいながらも柔和な表情をみせます。背面には「道八」のヘラ書きがあり、江戸時代末の京都で活躍した陶工、仁阿弥道八作であることがわかります。仁王像のある妙蓮寺は建武年間(14世紀前半)の開基とされます。この時期、根戸地区は根戸城(城郭)・法華房(居館)を中心とした中世豪族の拠点となり、それに伴って妙蓮寺・北星神社といった宗教施設が設けられたようです。この仁王像がどのような経緯を経て妙蓮寺にもたらされたのかは不明ですが、交通の要衝である根戸地区の繁栄を偲ばせるものとして重要です。

1.二十一仏武蔵石板碑(中峠・天照神社)(平成7年5月11日指定:第1号)

板碑とは中世に先祖の供養や自らの安穏を祈願して作られた塔婆の一種で、石材と形から武蔵型と下総型に分けることができます。やわらかな質の板石に仏像や年号、造立の主旨を彫りこんで記しています。現在まで我孫子市内には60基余りの板碑が発見されていますが、壊れて判別のつかなくなったものも多く、さらに多くの板碑が設けられた可能性があります。二十一仏石板碑は天台宗にかかわるもので、埼玉県さいたま市を中心に40基ほどが知られるのみで、中峠天照神社の事例は分布の東限に当たります。なぜ遠く離れた我孫子に設けられたのか、中世の信仰を考える上で非常に重要です。

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