特別展示室「手賀沼の夏ー子ども編ー」

  

 みなさんは手賀沼の生態系の復活の目標をご存知ですか。「昭和30年代頃の手賀沼」が復活の目標となっています。

 今回は、目標年代である昭和30年頃に子どもだった皆さんに手賀沼での夏の過ごし方や思い出をお聞きしました。

根戸の子ども  

根戸下(昭和30年頃)
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昭和30年頃の根戸下※1

我孫子市内の白山にお住まいの方(50代女性)は、小学校に入るまで(昭和30年頃まで)は根戸下のあたりによく泳ぎに行っていたそうです。そのあたりの手賀沼は遠浅の砂地になっていて、東京から来た親戚や飼い犬も一緒に水遊びを楽しんだそうです。当時泳ぐときは水着ではなく、男の子はパンツ1枚、女の子はシミーズだったそうです。

また、現在の手賀沼公園のあたりで、シジミをとったこともあったそうです。男の子がよくビタ(タナゴ)を釣っていたことも覚えているそうです。

新木の子ども

若松付近
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若松付近※1

 一方、新木地区にお住まいだった方(50代女性)は、子どもの頃「手賀沼は危ないので泳いではいけない」と言われていたそうです。当時新木付近の手賀沼で亡くなった子どもがいて、そのためだったのではないかと話してくださいました。

当時の手賀沼の水は透きとおり、水中には緑色の藻がたくさん見えていたそうです。

手賀沼ではお祖父さんがよくもくぞう蟹(モクズガニ)やフナをとってきてくれていたそうです。とるのには「ウケ」という仕掛けを使い、とったもくぞう蟹はゆでて食べました。

白山にお住まいの方と新木にお住まいだった方はほぼ同年代ですが、同じ手賀沼でも場所によって異なっていたことが分かります。

東京の子ども(柏市戸張)

子の神下
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昭和30年頃の子の神下※1

また、現在中峠にお住まいの方(60代男性)は、子どもの頃東京都文京区に住んでいました。

昭和28年の小学校4年生のときから中学2年生頃まで「文京区柏学園」への林間学校や遠足で毎年手賀沼を訪れていたそうです。※2

朝の体操の後、先生と一緒に現在の大堀川河口付近の手賀沼まで行って歴史や民話を教わったり、自由時間に手賀沼まで行ってパンツ1枚になって岸辺にとめてある舟に乗って舳先から手賀沼に飛び込んで、岸から5mくらいの子どもの腰くらいの深さのところまで入って水遊びをしたりしたそうです。

先生には内緒で手賀沼に入っていたので、ぬれたまま上からこっそりズボンをはいて、田んぼの中でカエルや虫を捕まえながら20分ぐらいかけて歩いて戻ったそうです。

 対岸の我孫子側を眺めると高台に農家の家のようなものがぼーっとかすんでみえたことを今でもよく覚えているそうです。

 東京生まれで戦後の東京の焼け跡しか知らないので、手賀沼で舟を見るのも珍しく、また、柏市街地も現在ほど開発されていなかったため木や田んぼや昆虫などの豊富な自然もたくさん残っていて、「文京区柏学園」に来るのがとても楽しく、ご自身の田舎のように思っていたと話してくださいました。

昭和30年代の手賀沼を目指して

今回ご紹介した3人はそれぞれ異なった手賀沼での夏をすごしていました。しかし、共通していることもあります。

それは、手賀沼がとてもきれいで、自然に恵まれていたことです。

きれいだった頃の昔の手賀沼は、水は透明で、水草や魚、昆虫など自然がとても豊かでした。

昔のきれいな手賀沼の暮らしを皆さんに知っていただければと皆さんが口々に話していました。

 最近手賀沼の浄化がすすみ、平成18年度の速報値ではCOD7.9/mlとなり、はじめて8/ml台を下回りました。しかし、浄化されてきたとはいえ、環境省の基準値である5/mlまでにはまだ遠い状況です。

 また、COD値が改善し、カラスガイやタナゴなど少しずつ生物が現れ始めてはいますが、依然として水生植物はわずか数種類しか生息せず、昭和30年代の生態系の復活にはまだ努力が必要です。

 今後も皆さんひとりひとりが自分でできる手賀沼浄化へのとりくみをすすめていくことで、未来の世代にきれいな手賀沼での夏の暮らしをプレゼントすることができるかもしれません。

※1 写真は本文とは関係がありません。

※2 文京区では、昭和21年から、都会の騒音から離れ、田園や林に囲まれた環境の中で、区立学校の児童・生徒の移動教室その他の事業を行うことにより、心身の健全を図ることを目的として手賀沼にも近い柏市内に「文京区柏学園」が設置されています。(文京区ホームページより)